南九州の祭り

 南九州は、個性的な祭りが多い。それは、地理的文化交流面と古くからの島津氏・薩摩藩による政治的支配面などが考えられる。北・中九州には、本州から伝来した芸能(鬼会・松囃子・田楽など)がひしめいて残存しているが、南九州にはその色が薄い。その半面、琉球や東南アジア等の異国文化色漂う祭りが強く印象に残る。それは、政治・文化の中心が本州にあったことや、九州内陸部を縦横に走る山脈が壁となり、人々の陸行を難渋させたことが考えられる。さらに、中世以降からの島津氏(薩摩・大隈・日向を領有、後に琉球王国を支配下)と薩摩藩の孤絶・閉鎖的な政治が、南北の文化交流を困難にした大きな要因として考えられる。南九州を代表する二大芸能として、「棒踊り」と「太鼓踊り」がある。棒踊りは、薩摩で発達して、周辺の肥後・日向・薩南諸島へ伝播した。由来は、薩摩藩が士気を鼓舞する目的として、薩摩藩示現流棒術を舞踏化したとも、棒で突く様から、地霊を呼びさまして豊作を祈願する祭りとも言われている。太鼓踊りの由来は、豊臣・島津勢の朝鮮出兵や戦いにまつわる話が多い。田園地帯には田の神文化が残る。新婚家庭で一年間預かった田の神を絵の具で化粧し、次の家庭に引っ越しをさせる「田の神戻し」がある。八月踊りや十五夜行事も特色としてあげられる。知覧町では、山から降りてきた神々(子供達)が、大地を踏みしめ月に豊作を感謝する「ソラヨイ」がある。沖縄県竹富島には、豊作を予祝し芸能を奉納する「種取祭」がある。島民330人が総出で祭りに関わり、2日間にわたって舞踊や狂言等を披露する。

竹富島の種子取祭

 棚田の写真を撮影していた頃、神楽の雰囲気にひかれて祭りに興味を持ち、九州の祭りを撮る旅が始まった。

とりあえず、農耕にかかわる五穀豊穣を祈願する祭りに絞った。「種子取祭」の名前に魅かれて、平成20年に八重山諸島に飛んだ。西表島を観光して、日程の最後に「種子取祭」を取材することにした。祭りは、9日間にわたって執り行われるが、芸能奉納の2日間(7日目と8日目)を撮影にあてた。事前調査不足と泡盛の呑み過ぎで、初日は庭の芸能から見学した。世乞(ユークイ)が登場した後、棒や太鼓の芸能が披露された。続いて、マミドー・ジッチュ・真栄・祝種子取・馬乗者の舞が琉球音楽にあわせて披露された。初日の舞台芸能は、玻座間村が担当するようだ。当主が豊作祈願をするホンジャーから始まる。その後、色彩豊かな衣装や独特の音階を奏でる音楽の中で、舞踊や狂言が繰り広げられた。会場の雰囲気は、遠い昔の琉球王国の隆盛を偲ばせるようであった。芸能奉納が終わり、夕方から世乞(ユークイ)が唄い踊りながら民家を巡回する。その家の子供を胴上げした後、座敷に上がって太鼓や踊りを交えてみんなと交流する。終わると、次の家からまた次の家へと延々朝方まで続く。私は、翌日早いので途中で帰って寝ることにした。

 翌朝4時に起床して、5時からのミルクウクシの儀式から撮影した。遅くまで世乞(ユークイ)の先頭に立っていたおばあちゃんは、何事もなかったかの様にシャキッとしていた。すごい精神力である。早めに引き上げた自分を恥じた。芸能は、仲筋村が中心になって奉納するという。庭の芸能と舞台芸能の流は、前日とほぼ一緒である。ただこの日は、石垣島や沖縄本島・東京などから帰省した人々との交流会があり、その微笑ましい情景が祭りを和やかにした。再び芸能が始まり、鬼捕りの狂言で芸能が終了した。最後に公民館長の心のこもった熱いあいさつがあり、2日間にわたる芸能奉納の幕を閉じた。翌朝、公民館長の陣頭指揮により、祭りで盛り上がった会場がきれいに片付けられていた。

島の人口は約300人。しかし祭りの期間は、観光客もあわせ何倍も膨れ上がるという。今日まで故郷を大切に思い、約600年も続いた祭りが竹富島の大きな魅力となり、私たちを心豊かに楽しませてくれた。また是非共訪れたい祭りの一つである。

 

 

田之浦山宮神社のダゴ祭り(鹿児島県志布志市)